2016年12月4日日曜日

Mantra/鼻とゆめ

日本は福岡のロックバンドの3rdアルバム。
2016年にPops Academy Recordsからリリースされた。
「何だかよく分からないけれど、とにかくすごい。」がコンセプトのバンドだそうで2007年から活動している。メンバーは3人だが、ライブ時などはそこに各種メンバーを迎える形で活動している模様。その活動は楽曲制作にとどまらずバンドのMV、絵画(オフィシャルでいくつか見ることができる)などの芸術領域で活動しているとのこと。天狗に思い入れがあるらしく、メンバーが天狗ということなのだろうか。
私は何をきっかけで知ったのか忘れたが、とにかくこのバンドの「鼻男」という曲が気に入っていたので、その曲が収録されているというこのアルバムを買った次第。

コラージュがなんともヒドイ特徴的なジャケットで私が買ったCDにはなんと特典として退職届がついている。帯にはこう書いてある「全ビジネスパーソン必聴!!〜御社の利益に貢献する珠玉の15曲〜」なんとも嫌な煽りである。通常ビジネスから逃げる手段としての音楽ではないのだろうか。凝ったやたらと厚みのあるインナーを開くと「休みなんていならない 人生の全てはビジネスにコミットしてしている」とかどこかで聞いたことのある様な嫌なワードが散りばめれている。
どうもとある疲れた「ビジネスパーソン」の心の様、その移り用を時系列におったコンセプチュアルなアルバムらしく、ある楽曲に出てくるワードが以降の曲にも引き継がれていたりと全体が一つの流れになっている。楽曲自体はかなり縦横無尽で、ロックにしてもその感覚は広く開かれており、ドゥーワップ(違うかも)だったり、重さのあるハードロックだったり、いかにもなポップスだったりとその守備範囲はとんでもなく広い。まるで表情豊かな劇を見ているかの様なバラエティ感と、それを突き通すコンセプトが作る統一感を楽しめる。
全体的に”いかがわしさ”が多分に含まれた楽曲であって、それが毒となり、ユーモアとなりのフックとなり、形態的にはやたらとレトロなアレンジだったり、逆にめちゃくちゃキャッチーでJ-popを感じさせるメロディラインやギターソロに現れている。やけに朗々とした良い声のボーカルや、バンドアンサンブルに加えてパーカッションやピアノ・シンセサイザーを取り入れた表情豊かな技術でもってその”いかがわしさ”を贅沢に表現している。
ビジネスパーソンという概念を用いることで人を過労死させる現代社会をネタにしつつ、次第に疲弊していき心を壊されていくその過程を物語的に見せていくことで、その過酷さを強烈に皮肉、批判しているレベル・ミュージックだ(と思う)。特にその”病み”を表現するのがボーカルでこの人が老婆の声から、切羽詰まったビジネスパーソンの声、完全に正気をうしなった鼻男の声と、完全にどうかしている感を一手に担う。現実から目を背けさせずに、あえて”ユーモア”という糖衣に包みつつリスナーにビジネスパーソン界隈の非情さに直面させるその姿勢は真面目かつ、なかなかラディカルであると思う。ラスト「終幕」の穏やかさは一体何を表現しているのか。その安らぎが何によって得られたのか、と考えると怖くなってしまう。
「営業日誌」なんかを会社で聴いているとなんとも背徳的な気分になって面白いし、実際「老婆の店」なんかを聞くと笑いが漏れて同僚に変な顔をされること請け合いである。
個人的にはルーツであるRammstein(コピーバンドだったらしい)を感じさせる「鼻男」の様なヘヴィさを備えた楽曲がもう何曲か聞きたいところ。

という訳で終わりのない日常に忙殺されているビジネスパーソンはまさに必聴。「コミット」に代表される横文字に殺意と吐き気を催す社畜の皆様はこのアルバムを聴いてサディステックな(あるいはマゾヒスティックな)笑みを浮かべて見るのはいかがでしょうか。私は非常に楽しんで聴いている。おすすめ。

Anaal Nathrakh/The Whole of the Law

イギリスはバーミンガムのエクストリームメタルバンドの9枚目のアルバム。
2016年にMetal Blade Recordsからリリースされた。
ブラックメタルにグラインドコアの激しさをミックスした激しい音楽性でファンを獲得。今年の夏には待望の初来日も果たしたAnaal Nathrakhの前作から2年ぶりの新作アルバム。セルフプロデュース作品。
私は2003年のEPを当時買ったきりだったが、ふと思い立って前作「Desideratum」を買ったらこれが非常にかっこよくて愛聴。新作ということで一にも二にもなく買った次第。ちなみに今年の夏のライブは行きませんでした。

メタル、ハードコアでも男がやる激しい音楽というのは一個の指向性として”強そう”というのがあると思うのだ。ひたすら重くなり、音の数は多くなり、速度は速くなる、声も叫びを通り越した獰猛さを備えることになる。一聴した限りAnaal Nathrakhはその方向性を突き詰めた音楽を演奏している様である。ひたすら連打されるバスドラム、重たさと速さを兼ね備えて突っ走るトレモロ、咆哮するボーカル、それらに加えてノイジーなインダストリアル要素、大仰で広がりのあるクラシカルアレンジ。ブラックメタルという範疇に限らず進化するメタルの一つの到達点、少なくとも今後進化し続けるジャンルの一つの里程標ということができるのではなかろうか。
Anaal Nathrakhはマニアックなバンドだが、アルバムは(たぶん)売れている方だし完全に知る人ぞ知るバンドではない。音質は非常にクリアだし、例えばゴアグラインドやノイズブラックメタルの様な先鋭化するあまり完全に玄人好みのバンドになっているわけではない。一つは強さを指向するバンドが例えば軟弱さの一つとして切り捨てているメロディラインを曲の中で効果的に使用している。朗々とした(Anaal Nathrakhは何と言ってもボーカルが大変魅力的だ。叫ぶにしても歌うにしても抜群の声量が圧倒的に説得力を増してている。)クリーンボーカルが歌を取るそのメロディラインは、一般的な楽曲でいうところの「サビ」の様に捉えることができる。曲の苛烈さと、歌いやすいキャッチーなメロディ。やはりこの組み合わせは人を惹きつける。クリーンボーカルだけでなく、ブラックメタル然としたイーヴィルなシャウトに緩急のあるメロディーも入れてくる。ここら辺はもともと寒々しく人を寄せ付けないながらもそのコールドさの背後に隠したメロディセンスが重要なファクターになっているブラックメタルという背景を強烈に感じさせる。
前作に比べて明らかに劇化しており、気持ちの悪いうねりのあるファルセットボイスを大胆に取り入れたり、マニアックかつ濃厚な曲でありつつもアレンジを閉鎖的でなく外に外に広がっていく様に大仰にしたりとなんとなく劇場感すらある。
個人的には2曲目の「Depravity Favours the Bold」の後半のクリーンパート、特に2分15秒あたりからの、大きく広がるあのクライマックス感。真っ黒い暗黒舞踏で急に強烈にスポットライトを当てられたかの様な、声の堂々とした主役感、これだけで完全にやられてしまった。圧倒的な強さ。

ぶれない強さを発信し続ける最新作。過去作が好きな人は迷わずどうぞ。とにかくむしゃくしゃしているぞ、俺はという悩める諸兄も芸術に触れてその煩悩を晴らすのはいかがでしょうか。

2016年11月27日日曜日

V.A./TILL YOUR DEATH Vol.3

日本のレーベルTILL YOUR DEATH Recordsから2016年にリリースされたコンピレーション。
「お前が死ぬまで」というタイトル(レーベル名)はToday is the Dayのライブ盤「Live Till You Die」をなんとなく彷彿とさせる。このレーベルは年末恒例となっているイベント総武線バイオレンスも主催。去年足を運んだがデスメタル系のバンドがベテラン、若手まで名を連ねて非常に楽しいイベントだった。

今回このオムニバスはそんなレーベルが持つもう一つの側面、ハードコアにフォーカスし、国内で活躍するバンドを集めたもの。11バンドが1曲ずつ持ち寄りアルバムを構成している。収録バンドと曲目は以下の通り。
1.ANCHOR「物語」
2.CYBERNE「Thrash -独裁-」
3.Dead Pudding「Untended」
4.kallaqri「水仙」
5.NoLA「You're Useless」
6.REDSHEER「Reality To Disappear In The Letter Of Unnatural Fog/DistortionsContortions」
7.URBAN PREDATOR「THE NORMAL」
8.weepray「カルマ」
9.wombscape「枯れた蔦の這う頃に」
10.明日の叙景「花装束」
11.冬蟲夏草「催奇性と道化」
※レーベルのブログより拝借しました。
新潟で長いこと活動するANCHOR、大阪のCYBERNE、青森のkallaqriなどハードコアを演奏しているなら首都、地方関係なく全国からバンドが参加している。さすがにどのバンドもオリジナリティあふれる曲を演奏しており、ハードコアという軸はあるもののそれぞれにかなり印象の異なる趣がある。また一方で共通する軸は確かにあり、それがなんなのかというのを考えるのは非常に楽しい。

まず歴史的にというよりは個人的に激情ハードコアというとenvyのイメージがある(一番初めに触れてハマったのがenvyだったため)んだけど、そこからの流れを感じさせるぎゅっと詰まったカオティック(ハードコアの勢いを残しつつ曲の展開がある程度複雑である)で音の数が多い曲に文学的で批判するというよりは内面に切り込んでいき、また他者を肯定し励ます様な歌詞をちりばめ、それらを生かすために激しさに対してアンビエントなパートを入れるバンド達。前述のANCHORやkallaqriなどは比較的忠実にその潮流に乗ってさらにそれを自分たちなりに深化させている様に感じる。いわゆるEbulltion Records(3枚この間聞いたばかりであまり偉そうにできないのだが)との共通点もありつつも、より内省的なのは非常に日本的だなと思う。特に静かなパートには国内の方が力を割いているイメージ。
それからCYBERNEやNoLAの様なハードコアの激烈な推進力にパラメータを全振りしたかの様な突進力のあるエモバイオレンス系。EbulltionならOrchidなのかもしれないが、さすがに時代を経てこちらの方がメタルなどのジャンルも経由し咀嚼したブルータルなサウンドでエモさも大分非情になった。青臭さをはるか通り越しむしろバイオレンス。個人的にはNoLAの曲はこのコンピの中でも指折りのかっこよさだが、ハードコア感溢れるイントロと金切り声で「役立たず!」とリフレインする終盤が恐ろしいほどに感情的だ。
それからREDSHEER、weeprayの様に激情の流れを確かに感じさせながらも独自の道を深く切り込んでいくバンド。簡単にいうと迷いあぐねた結果明らかにどうかしてしまった様な捻くれた音楽を鳴らしている。REDSHEERのいきなりのアンビエントパートは美しも(それ故)不穏で、後半怒涛の展開になだれ込む様は相変わらず凄まじい。うねりのあるハードコア的な演奏は確かに伝統的だが、乗るボーカルが激情の流れからすると邪悪すぎる。別に人生はクソだ!と言い切るわけではないが、良し悪しを経て割り切れない人生に唾を吐きつつ未だに執着を捨てられない様な力を感じる。突き放した様な演奏とよく合う。REDSHEERが個人的には目当てだったのだが期待を上回るよさ。それからボーカルという意味では音源では初めて聴くweeprayも悩みすぎて現実社会とずれだした様な高音のボーカルと撤回の様な重たく叩きつけるギターリフが混じり合った曲で踏み外した感のあるハードコアを演奏している。爪弾かれるアルペジオもそうだがあえて外している様な不安定さがあって黒いハードコアという印象。
激情をモダンな音像でアップデートしたかの様なwobmscape、ポストブラックを感じさせる爽やかな叙情的なアルペジオが魅力の明日の叙景(もっとブラッケンドかなと思ったら予想よりハードコア色強くてむしろ大変かっこいい。)、オルタナ〜ニューメタル世代の怪しいごった煮さをスピーディに混ぜ込んだ忙しない冬蟲夏草の最後の三曲はこれからの日本の激情ハードコアを華々しく提示する様なメッセージ性を感じた。

現行の日本の激情ハードコア界隈を手っ取り早く知りたいのなら間違いない音源ではなかろうか。単純にこの手の音が好きなら買って絶対間違いない。非常に楽しめるアルバムなのでとてもオススメ。

2016年11月26日土曜日

Car Bomb/Meta

アメリカはニューヨーク州ロングアイランドのマスコアバンドの3rdアルバム。
2016年に自主制作にてリリースされた。
Car Bombは2000年に結成されたバンドで割とメンバーが流動的なアングラ界隈では珍しく結成当初から不動の4人体制のようだ。以前は激音レーベルRelapse Recordsと契約していたが今回はどことも契約していない状態でのリリースとのこと。私は前作リリース時に「車爆弾」とは剣呑な名前だなというのとアートワークが独特だなと思っただけど手は出さなかった。今回は本当になんとなくBandcampでかってみた。今回もそこはかとなく理系な匂いのするアートワークが印象的。

マスコアってことでなんとなく技巧的で高音でギターをピロピロしているハードコアなのだろうなと思っていたのだが、豈図らんや聴いてみると結構そんな先入観とは異なった音楽を演奏している。Meshuggahにすごい似ている。ガツンガツンと細切れにした低音リフをパーカッシブに演奏する。技巧的と言っても正統メタルなピロピロ感はほぼなく、デロデロデロとした垂れ流すようなリフの積み重ねや、来るか?って時にあえて外してきたりととにかくリズム、リズム、リズム。音のバリエーションはテローンと伸ばしたり、ハーモニクスなどの高音を飛び道具的に入れてきたりする。ドラムもテクニカルかつ正確でギターと合わせたり、意図的にタイミングをずらしたりする、こちらもドカドカ、休止、ドカドカ、休止と言ったように休符と言うか細かいストップアンドゴーを繰り返すフレーズが多用されている。ここで言うストップアンドゴーは速度は一定だが休止が多いと言う意味。速度は早くも遅くもない中速でどっしり系。非常にマシン的であり、知的な音楽になっている。私はDjentというジャンルをほとんど全く聴いたことがないのでなんとも言えないのだが、少なくとも昨今のMeshuggahには多大な影響を受けているのだろうと思う。デス声までいかない、高音スクリームを織り交ぜたドスの効いたボーカルもJens Kidmanを彷彿とさせる。
こうなるとじゃあMeshuggahとどこか異なるのかというのがこのバンドの持ち味になって来るわけだけど、このバンドは結構テクニカルかつ無機質なパートに有機的かつメロディアスなパートを織り交ぜて来る。この時ばかりはボーカルもクリーントーンでわかりやすいメロディ(キャッチーとまではいかない位)の歌を歌う。ここら辺はMeshuggahにはない部分かと思う。メタルコアっぽいというよりは個人的には往年のニューメタルっぽさを感じた。クリーントーンにエフェクトをかけたりするところとかは特に。演奏が複雑という意味では明確にニューメタルとは違うのだが、曲作りにはそこを通過したような残り香がある。明確にマシンパートとニューメタルパートを分けた楽曲も良いけど、4曲め「Gratitude」の様にその両者の要素を溶け込ませたハイブリッドなつくりの曲に独自性と面白さを感じた。そのあとの5曲め「Constant Sleep」も騒がしい前半と不穏な後半が楽しい。

というわけでMeshuggah好きで三十路くらいの人は聞いてみるとおやと思うかもしれない。冷徹な音楽なのに頭でっかちになりすぎないところが良いバランス。

アーヴィン・ウェルシュ/トレインスポッティング

イギリスの作家による青春小説。
どちらかというとダニー・ボイル監督、ユアン・マクレガー主演の映画の方が有名かもしれない。かくいう私も高校生くらいの時に夜中にやっているのを見たことがある。内容は綺麗に忘れてしまっているが。そういうこともあって手にとってみた。ハヤカワ文庫補完計画全七十冊のうちの一冊。

大英帝国スコットランドに住む20代の青年マーク・レントンは重度のヘロイン中毒者だ。定職にはつかず複数の地域から生活保護を受けるシンジケートに所属し、違法に手に入れた金で麻薬に溺れている。親友のスパッドは優しい性格だがやはりジャンキー、シック・ボーイは理屈っぽく上から目線でセックス中毒、気分にムラがある横暴なベグビーは暴力中毒だ。レントンには夢も希望もない。ただヘロインをやっているときは生きていく上で発生するあまたある悩みがたった一つに減る。つまり次のヘロインをいかに手に入れるか、だけだ。ただ、ヘロインがあれば良い。

この小説には物語を突き通している背骨の様な大筋がない。レントンを始めその周辺の若者たちの毎日の些細な出来事を短いスパンで次々にかさねていく。概ね彼らは何かに酔っていて、それに支配されている状態だ。物語に筋がない理由は簡単で、ジャンキーは依存しているブツがあればそれで事足りているからに他ならない。
「トレインスポッティング」には何かおしゃれな感じがある。悪いことというのは(未熟な)人間を惹きつける側面があることはどうしても否定できないのではなかろうか。ハイ・セレブリティたちの優雅な嗜み、ドラッグはそんな悪いことのある意味では頂点だ。退屈な非日常から抜け出してくれる、他人を(表向きは)傷つけない、適度に自傷的な退廃を含んだ刺激物。なるほど飄々と真面目に会社に行くためにバス亭に並ぶレントンらは、ムカつくという理由だけで他人に喧嘩をふっかける彼らは、法律をはじめとする私たちを縛るルールから外れて自由に見える。しかし意図的なのか、それともジャンキーたちの実態を克明に描いているのかわからないが、読んでみるとレントンたちの日常は悲惨である。当時(1980年代末)の英国、スコットランドの不景気をはじめとする悲惨な状況にもその一端はあるのだろうが、作者は意外にもそこには主人公たちの軽口くらいでしか触れない。レントンたちの毎日は様々な麻薬と中毒に彩られて毎日大差ないない様に見えるが、実はそうでない。幼馴染との関係は悪くなり、家族からは白い目で見られ対立する様になる。使いまわした注射針でHIVに感染し、若いのに老人の様にふけこみ、死ぬ。神経質になり暴力的になる。暴力の矛先は弱いもの、他人と違うものに向かう。女性は泣く、子供は殺される。ハッピーなドラッグライフは後半になるにつれてそのメッキが剥がれてくる。孤立しているはずのジャンキーたちだが、むしろ社会的な生物である人間の側面が強調されて行く様に思える。ヘロインがあれば悩みがなくなる、と嘯くレントンもその例外ではない。
麻薬を打つからクズなのか、それともクズだから麻薬を打つのか知らないが、アーヴィン・ウェルシュが言いたいのは麻薬が人間性の何かを(良い方向に)変えるということは全くなく、ただ世の中がクソだってことなのではと思った。別に周りがクソなのでジャンキーになるのは仕方ないという言い訳ではないし、麻薬をやる人間が麻薬をやらない人間を不幸にするという事実を、この物語に「軽妙さ」を求めるなら異質ですらあるキャリアのジャンキーにレイプされた彼女からHIVに感染した男のエピソードにそれなりのページ数を割いて読者に叩きつけている。それからレントンの親友スパッドのおばあちゃんのエピソードにある人種差別の身近な現状。麻薬をやらなくても現状はクソで、さらに麻薬を打っても実はその状況から抜け出すことは叶わず、そして確実にそのクソの中でもさらにクソににおちこんでいく。
「基本的に人間てのはさ、短くて無意味な人生を送って死ぬだけなんだ。だから人生にクソを盛る。仕事だの、人間関係だの、クソみたいなものを盛るおかげで、人生もまんざら無駄じゃないかもしれねえって勘違いするわけだ。」
こう嘯くレントン、彼が最終的にどのように麻薬と縁を切るのか、というエピソードを考えると享楽的の裏側にあるのはある種厭世観を飛び越した究極的なニヒリズムだ。

映画を楽しく見たという人にこそ読んでいただきたい一冊。非常に面白かった。

Oppression Freedom Vol.14 Monarch!/Birushanah Japan Tour 2016@新大久保アースダム

フランスから地獄ドゥームMonarch!が2年ぶりに来日。でもってまた日本は大阪の和製トライバルスラッジBirushanahとツアーをするという。東京はCoffinsの企画。2年前もBirushanah帯同でしかも東京公演はCoffins企画。腰の重い私もちゃっかり見にいったのでした。あれから早いものでもう2年経つのか〜。
しかし今回東京公演は11月25日(金)という平日だったが、前回が楽しかったのと何と言っても現行オルタナティブSunday Bloody Sundayが参加するというのでどうしても見たかった。そんな訳で仕事場のトイレの窓から脱出した私は一路新大久保に向かった。
18時オープンの30分開始で私がついたの45分くらい。もう始まっているかなと思ったら幸い押している様だった。流石に定時ダッシュかまさないとな平日の早い時間帯なので人は少なめ。(最終的には大分入ってました。)

CARAMBA
30分押しで一番手はCARMBA。
日本の3人組のスラッジバンドでフィードバックノイズ垂れ流し系に厭世観たっぷりの喚き声ボーカルが乗っかるタイプ。かっこいい。開始10分ぐらいで思ったのが「こりゃGriefや」、道理でかっこいいはずだ。音は馬鹿でかいが完全低音志向ではなく、ざらっとひりついた高音も混ぜてくる音作り、リフの境界が融解した様な圧倒的ドゥーム感はまさにGrief。ただGriefに比べるとリフがさらに溶けている。そして微妙にゆったりとしたストーナーなリズム(特にベースかな??)がある。Griefにあるビンテージロック感やグローヴィサはあまり感じられなくてかなりの地獄。完全に人嫌い、世界嫌いな世界観で一切MC無しの潔さ。音源買っとけばよかったな。

Sunday Bloody Sunday
続いて日本のオルタナティブロックバンドのSunday Bloody Sunday!前述の通り今回のお目当。とにかくこの間リリースされた1stアルバムがかっこいい。いわゆるあの頃の「オルタナ」を2016年の今に演奏しているバンドで郷愁を感じさせつつも独自性を打ち出したその音楽性は音楽付きの三十路あたりを魅了してやまないとか。
ライブで聴くとものすげ〜〜〜カッコよかった。帰り道音源聞いたのだけど、結構かっちりまとまった音源に比べるとライブは当たり前だけど音がでかくて荒々しい。迫力満点で私の頭に思い浮かんだのはアメ車だ。でっかいハマーみたいなのではなく、ムスタングみたいなちょっと昔のかっこいい奴。ぎらりと光る金属の塊めいた乱暴さと粋を凝らした職人芸の技術がある感じ。とにかくギター/ボーカルの方のダボっとした佇まいがオルタナ感満載なのだが、出す音も中音が分厚く、刻みまくる小節の終わりに伸びるギターの音が艶やかで痺れる。エフェクターも多めで音作りにも気を使っているのだと思う。曲に対してボーカルの頻度がものすごく多くないのは、こうやって演奏を楽しむためなのではと。ドラムとベースは正確に土台を作っていってギターが歌いまくる。幼さを感じさせる甘めのボーカルも良い。この声が良いんだな〜と思う。例えばこれが強いとかっこいいけどHelmetには敵わないかもしれない。Coaltar of the Deepersみたく重めの演奏と甘めのボーカルの対比がオリジナリティ。

Birushanah
三番手はツアー主催日本は大阪のありがたい仏様(びるしゃなは毘盧遮那といって仏様のお名前なんだそうです。)スラッジメタルのBirushanah。個人的には本当好きなバンド。ドラムのメンバーが変わったんだと思う。アフロの人になってました。この手のバンドは珍しくステージのライト全点灯状態(多分)でメタルパーカッション(ドラム缶やタイヤのホイールなどを金属のスティックでぶっ叩く)の佐野さんの味のある口上でスタート。Birushanhはだいたい音源を持っているのだけど最初の曲はわからなかった。ひょっとしたら誰かのカバーだったのだろうか。「炎の中に投げ込む」みたいな歌詞が印象的。SBSと違ってエフェクター2個しかないギター/ボーカルのIsoさんは歌いまくりでその風貌もあってインディアンの歌姫みたい。「窖」(好きすぎるのでテンション上がりまくり)の変形から最新作魔境の「瞼色の旅人」へ。間に佐野さんのしゃべりを挟みつつ「鏡」で最後は佐野さんの銅鑼乱打でしめ。この曲は本当私歌えるからね。
「鏡」のイントロもそうだけどメタルパーカッションとドラムという打楽器二つが執拗に反復していく催眠性のある呪術的なスラッジでフロアを魔境に連れていくスタイル。後述のMonarch!と違って陰陽溶け込んだ異界っぷりはお祭感すらある。無二のバンドではなかろうか。CavoのCDとツアー初日の朝までかかって作ったというパッチが付いた魔境のカセットを購入。前回に引き続きおまけにポスターをもらいました。

Coffins
続いて企画の主催者、東京オールドスクールデスメタルCoffins。何気にCoffinsは何回かライブで見ている。いろんな企画に引っ張りだこということなんだろうな〜。
ドゥームの要素色濃いパワフルなデスメタル。今回改めて思ったのはドラムの力強さ。結構涼しい顔してアタックが相当強い。速度のコントロールには並々ならぬこだわりを感じさせせており、ドゥーミィなパートの重たさは勿論、ツタツタ刻むパンキッシュなドラミングも非常にカッコよかった。一見非常にとっつきにくい雰囲気なのだが実はかなりキャッチーでファンは勿論、初見でも盛り上がりやすい曲構成とそしてやはり熱い体温でフロアも盛り上がること。私はCoffinsスプリット音源しか持っていないのだけど、最後の曲は本当楽しかったな〜。ボーカルの人は最後フロアに降りてもみくちゃに。あれなんていっているのだろう?絶対100%違うだろうけど「B-boy Nation」に聞こえるな…とか思っていました。

Monarch!
最後はフランスの地獄ドゥーム。このバンドボーカルは紅一点女性なのだろうけど体調不良で今回のツアーはおやすみ。代わりにベーシストがボーカルを兼任することに。これはこれでレアだぞ、とみなさん思ったはず。ボーカリストEmilieはボーカルの他にエレクトロニクス(机に楽器置いて蝋燭を立てる)も担当しているからそこがなくなるとどうなるんだろう?という期待もあり。
完全に圧殺系ドゥームメタル。フィードバックも含めて全て低音にフォーカスされているので例えば一番手のCARAMBAとはかなり音のイメージは異なる。ドローンの要素が強いといっても良い。ただドラムが強烈で長身から腕をまっすぐ伸び切るくらいまで伸ばして(スティックをクロスさせる)から渾身の力で振り下ろす。全ての音がでかい。ボーカルは空間系のエフェクトをかけた歌詞のない絶叫スタイルで、地獄の谷にこだまする悪霊か、もしくは突風が立てる音のようで恐怖感を煽る。呪術的であるがBirushanahのお祭り感は皆無でひたすら重苦しくすりつぶす。ライトを落としたステージは長方形に切り取られさながら水槽のようだが、すぐに間違いに気づく。フロアが水槽でメンバーが音で私たちを溺死させようとしているのだ。控えめにいっても地獄だ。そしてそれが好きな奇特(危篤)な人たちもいるのである。音楽の性質から言ってインプロの要素が強いのかと思ったが実はかなり決めるところは決めるスタイルで、特にギターの二人はユニゾン(同じフレーズをフレットというか音域をずらして演奏する、ユニゾンじゃないかも)で弾いたりしてかなり実は凝ったことをしている。ライブ後に知ったのだが、ギターの人はポストメタル/スラッジバンドYear of No Lightでも弾いているそうだ。なるほど。
散々っぱら牛歩ドゥームを披露した後2年前と同様最後は爆走ハードコアナンバーで締め。フロアはむしろ呆然とした様子で面白かった。

というわけで2年前に勝るとも劣らず今回も楽しかった。結構アプローチが違うMonarch!とBirushanahが仲良しというのは面白いな〜。今度はEmilieも体調治してまた2年ごという話になっているので早くも楽しみ。

2016年11月20日日曜日

ネヴィル・シュート/渚にて

「世界の終わり」という言葉には何かしら人を惹きつけるものがある。
この言葉を聞いてまず私の頭におもいうかぶのはThee Michelle Gun Elephantの楽曲である。

この歌の歌詞はストレートだ。「世界の終わりを待つ君」というテーマについて静寂をつんざくように切り裂く激しいギターに合わせて歌われている。
世界の終わりはロマンティックだ。既存の煩わしいルール、人物、約束、物事に対する胸のすくような大破壊とそしてそこから何か私たちが全くみたことのない新しい何かが始まる予感がするからだ。
世界の終わりを考えるとき人は無意識に世界の終わりとそのあとの自分を思い浮かべるのではないだろうか。
そんな「世界の終わり」に対して容赦のない虚構を叩きつけるのがこの作品である。

ソ連と中国の間に端を発した争いは第三次世界大戦に発展。コバルト爆弾が飛び交いあっという間に世界は週末を迎えた。核兵器が撒き散らした放射能で世界のほとんどの地で生物は絶滅した。南半球の一部を除いて。アメリカ海軍に所属する原子力潜水艦「スコーピオン」は辛くも難を逃れ、オーストラリアの汚染されていない都市「」に寄港する。艦長タワーズは現地の人と触れ合いながらも今はなき故国に想いを馳せる。そんな中すでに住むものがいないはずのアメリカからモールス信号がはるかオーストラリアまで届く。信号は意味不明のものだったが、信号を飛ばすには電気が必要だ。タワーズらは万に一つの可能性を確かめるために「スコーピオン」でアメリカに向かう。

世界の終わりをテーマにした作品にしてはタイトルの「渚にて」はおとなしすぎるだろうと思う。
この物語は非常に抑えた筆致でときにのんびりとしているほど、そして意識的に温かい雰囲気で描かれている。心温まる、感動するといういっても良い。だが扱っているテーマはまぎれもない、世界の終わりについてである。
オーストラリアは戦火を逃れたが、放射能は北半球から地球全域に拡散し続け、およそ半年後にはオーストラリア全土ですら生物の住めない土地になってしまう。いわばもう人類と生物は余命宣告をされた状態である。電気は通じているがガソリンが貴重品で車の数は劇的に減っている。
そんな状況下で原子力潜水艦「スコーピオン」の関係者である、艦長タワーズ、オーストラリア海軍の 夫妻、同じくオーストラリア軍属科学者 、夫妻の友人でタワーズと接近するモイラを中心に物語は進んでいく。
この物語はとても不思議だ。世界の終わりの前の穏やかな生活を描いている。カタストロフィーを前にこの静けさ、穏やかさはちょっと違和感がある。世界がもし終わるなら、ルールになんて従う必要はないはずだからだ。思うにこれに理由は二つある。
一つ、世界の終わりにはある程度長い期間があるため、暴徒化するには暇がありすぎる。当たり前だが狂騒には莫大なエネルギーが必要である。半年間以上暴徒と化すのは難しい。
一つ、作者のネヴィル・シュートが意識的にそういった部分を書いていない。実は地の文で暴徒化している人々と荒廃した町に対しては言及がある。ただ登場人物たちは郊外か、軍の建物に入ることがほとんどなので争いに巻き込まれることが少ない。
個人的には後者の作者がそういったものを書きたくなかったからだと思う。そういうのを受け付けないというのではない。シュートは人間というもののその尊厳を描きたかったのである。それが明日終わる世界でも消えることのない火のようなその誇り高さ、そして暖かさを描きたかったのではなかろうか。良い歳になってくるとわかるものだがかっこい死に様とはイコールかっこいい生き様に他ならない。おそらく「渚にて」の世界でも大半の人はカッコ悪く生き、カッコ悪く死んだのだろう。その中でも人間らしくいきそして死んでいく人を書いたのがこの作品に他ならない。作中の暖かさ、それは終わっていく世界でとても稀有で難しい。そしてその希望もやがて潰えていく。私たちは自分を死なないと思っているが、登場人物たちも放射能の南下はひょっとしたら止まるのでは、自分たちは世界の破滅を生き残れるのではと思っている。しかし無情にも放射能の拡散は止まるということがなさそうである。戦争を始めたのは私たちではないのに、なぜ私たちは死なないといけないのか?大きすぎる力に伴うリスクがこの言葉に集約されている。
人間は自己保存の原則に従って生きている。子供をなすのは第一にしても、その他何かしら自分の生きた証を残したいのが人間である。しかし誰も残らないことが確定している世界で一体何かを残すことに意味はあるのだろうか。または「人生はクソで全く意味がない」というのはよく聞くフレーズだが、それではなぜそう言うあなた(または私)は自殺しないのだろうか?
世界の終わりは人類を含む全生物の絶滅だ。それは美しいかもしれないが、実際には美にはなり得ないだろう。なぜなら人類が絶滅した時点で完全な世界の終わりを観測できることができなくなるからだ。世界の終わりがそこに近づいているのにおままごとをするかの様に振る舞う人々、その姿を指差して滑稽だと笑えるだろうか。そこには諸行無常の残酷さがある。私たちは最低限、もしくは最大限生きることしかできない。ある意味最強の極限状態で一体私たちの生がなんなのか?と問いかけるのがこの小説では。

Thee Michelle Gun Elephantには「Girl Friend」と言う曲がある。活動の終わり頃にリリースされた曲で、チバ語とも評される比較的その指すところが判然としない歌詞が多いこのバンドでは珍しくメッセージ性が強く、そして真っ当なラブソングである。争いと暴力に満ちた世界をくだらないとこき下ろす一方で天国すらも唾棄する、ただ君といたいと言うその歌詞はある種前述の「世界の終わり」と対をなす曲なのだが、なんとなくこの小説にはこちらの曲の方があっている様な気がする。ちなみに私はどちらの曲も大好きである。

核という巨大な力と愚かな人類という最悪の組み合わせの恐怖を描くという意味でも広く読んでほしい小説だと思うが(つまりネヴィル・シュートの怒りに満ちた、そして静かな警告でもあるわけだ)、もっと普遍的にあなたのその生はどんなものなのか?と問いかけてくる、そこがいちばんの魅力だと思った。ぜひ、ぜひ読んでいただきたい一冊。